人間の「生き延び生き切る能力」とは一体何なのか?【藤森かよこ】
未来は3パーセントの有能な人間しか生き延びることはできないと恐れる必要はない
■問題は能力というものは超多様で解明されていないということ
競争否定の教育を受けると、「競争によって個人の能力を磨くインセンティブが与えられる。それが他の人の能力を評価することにつながり、それぞれに異なった能力を持った人たちが力を合わせることの必要性が認識されるようになる」のに、競争を否定すると、その機会を得ることが子どもにできなくなるという杉本説には説得力がある。
一方、大竹の、競争否定の教育の前提は、誰にでも等しく能力があるという性善説ならぬ性有能説であるから、競争否定の教育は、能力を発揮できないのは本人の怠慢が原因であり、そのような怠慢さに同情する必要はないという発想に至ってしまうという説にも説得力がある。
しかし、私は思う。そもそも競争社会にしろ、競争を否定する社会にしろ、競争というものによって明確になる能力というものには限りがあるのではないかと。測定できる能力だけが人間の能力なのだろうか。まだ言語化されていないという意味で未発見の能力というものはいっぱいあるのではないか。
知能指数150以上あり、いろいろな技能を習得できて、常に学び続ける向上心があり、容姿端麗で、コミュニケーション能力に秀でている人間が30歳で自殺したら、その人は有能と言えるのだろうか。
引きこもりで稼ぐ能力はゼロで親の年金で食べていたのではあるが、自宅の家事を引き受け、老いた両親の介護もし、両親の死後は、自ら役所に相談に行き、生活保護を受給できている65歳の男性は無能と言えるのだろうか。
夕食はデリバリーが多く、洗濯物は溜まり、ついでに部屋も埃がいっぱい積もっているが、家族や親類の嫌味や小言を聞き流し、ご近所の人々の目を気にせず、機嫌はいつも悪くない「家事はできないが離婚されもしない専業主婦」は無能と言えるのだろうか。
勤務している零細企業の仕事内容は理解していないが、ともかく上司の言うことには忠実に動き、上司が年下になろうが気にせず、功績はなく小さな失敗は数知れずだが、決定権はないので大きな失敗もなく、邪魔にもされないが頼られもせず、嫌われはしないが好かれもせず、ともかく勤務し続けて定年を迎え、慎ましい年金者生活を平和に過ごしている人間は無能と言えるのだろうか。
勇敢でもなく強靭でもなく、兵器の取り扱い方もよく理解できていないし臆病で運動神経も勘も鈍いのに、部隊でただひとり生き残った兵士は無能と言えるのだろうか。